SARSのとき01〜始まりは大混乱

SARSが台湾で流行ったのは2003年のこと。WHOに正式加盟していなかった台湾は、大陸の情報封鎖のとばっちりをモロに食った。全く情報のない状態で、なんだかわけのわからない感染症の発生に市井の人々は恐怖におののいた。感染源もわからないし、特効薬もない。医療関係者が次々と病に倒れた。

それでも、学校に仕事に行かないわけにいかない。私も通常通り、語学学校へ通ったし、アルバイトにも行った。
その当時は 八百屋の手伝い もしていた。市場は、屋外とはいえ不特定多数の人と接触する場所だから、感染する可能性は低くない。彼氏のお母さんが「うつったらうつったときよ」「自分ももう歳だし」と言うので、「そういう問題じゃない」と私と彼氏と二人がかりで懇々と説明した。
感染するリスク にばかり目が行きがちだが、感染した次の瞬間には 感染させてしまう側 に立つという視点が抜けていることを感じた。

こんなニュースもあった。
封鎖されている区域のアパートから一人のおばさんが出てくる。そのまま取材陣の前を平然と通り過ぎて行きそうになったので、リポーターに「おばさん!外出しちゃダメだって!」と制止される。おばさんは「ちょっとそこまでタバコ買いにいくだけだから」と歩いて行ってしまいそうになったので、「ちょっとの外出もダメなんだってば!」と慌てて止められていた。掴んで連れ戻したくても接触するわけにいかないので、みんな口々に「ダメだって!」「戻れって!」と叫ぶ。
二次感染予防の措置だから、元気な人は元気なのだ。

語学学校の入り口にも体温測定マシンが設置された。空港に設置されているような仰々しいものだ。テイクアウトのホットコーヒーを持ったまま通るとピーピーと機械が反応してしまう。生徒達は飲み物を持った手を一生懸命さげて、カメラに映ってしまわないようにして通過した。

「SARS」という名称が決まった頃だろうか。交流協会で日本人を対象に使い捨てマスクを配布するという情報が入った。パスポートを持参してもらいにいった。在留届を出している人が対象ということだったのだが、あとで提出すればいいからと届けの用紙と一緒にマスクを支給してもらえた。一人3枚までもらえた。
そのころ私はスクーターに乗っていて、もっぱら布製のマスクを使用していたし、公共の交通機関を利用する機会が少なかったので、1枚は自分用に取っておいて残り2枚はMRT通勤している同僚にあげた。
乾いた咳が続くのがSARSの特徴の一つだった。MRT内で咳が出ると、周りの目が気になってすごく緊張するとその同僚は言っていた。
布製マスク一色だった台湾人バイカー達だったが、白い使い捨てマスクの使用率が一気に増えて、まるで日本の冬のようになった。

正しい手の洗い方「濕搓沖捧擦」のポスターがあちこちの洗面所に貼られた。
「浩劫」という学校では習わない中国語も、件の同僚が「いまのこの状況はまさに浩劫ね」と言ったから覚えた。

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日本語:大災難、カタストロフィ
中国語:浩劫(ㄏㄠˋㄐㄧㄝˊ)