「障害とは」について考える
先日、東京2020オリンピック・パラリンピックのボランティア講習会に参加した。
オリンピック、パラリンピックの起源や日本でそれに貢献した人等、一通りレクチャーを受けた。
三部構成の最後、視覚障害のあるファシリテーターによる「障害」についてのレクチャーが行われた。
講義の一番最初に、「障害とは xxxxxxxx である」という文章を完成させるというお題を出された。
「障害」と聞いて私が最初に思い浮かべたのは「男子3000m障害物競走」だ。
陸上競技には「3000m障害物競走」という、ハードルやら水濠やらを飛び越えながら3000mを完走するレースがある。選手は1周目ですでにビショビショ、そこそこ過酷なレースだ。私が高校生当時は男子のみの競技だったが、この記事のために調べてみると、いまは女子によるレースもあることを知った。
私にとって「障害」とは 乗り越えなければ先へ進めない ことと同義なのだと認識した。
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台湾では障害者が普通に暮らしている。
「普通」という言葉は、曖昧でいて且つ「個々の常識」が押し付けられるのを感じるのでとても嫌いな言い回しなのだけれどここでは使わせてもらう。
台湾で「私は聾唖です」と書かれたカードを首から下げたガソリンスタンド店員や、右手の指が一本多い郵便局員といった方々にサービスを受けたことがある。
日常生活のあらゆるところで、本当に普通に健常者と一緒に仕事をしている。
台湾に来たことがある方はご存知と思うが、台湾では身体障害者用の三輪スクーターも多い。
あるとき、用事が終わって路上駐輪場に停めていた自分のスクーターの元へ行くと先客がいて、「可以請妳幫個忙嗎?(手助けしてもらえますか?)」と話しかけてきた。
杖をついた彼女のスクーターは障害者用の三輪スクーターで、もちろん専用駐輪スペースに停めてあったのだが、その両脇に二輪のスクーターがぎゅうぎゅうに停められていたのだ。駐輪スペースのライン内なら罰金もレッカー移動も免れるからだ。
(※2008〜2009年頃の話。2020年の台北はちゃんと駐輪スペースが守られています)
路上の駐輪スペースからスクーターを移動させるには、足を踏ん張って後方へ引っ張り出さねばならないのだけれど、下肢の不自由な彼女が自分のスクーターを安全に移動させるにはスペースがなさ過ぎた。
彼女のヘルプに、即座に「沒問題!(もちろん!)」と答えた自分を、今でも誇りに思っている。
(当時の上司だったR氏の口調を真似ただけなのだけれども)
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障害 という言葉は、一般的にはなんらかの身体的、精神的ハンディキャップを持つ人を連想させるだろう。
くだんのレクチャーについては、私の体験談とこちらをご参照願いたい。
誰もが暮らしやすい社会を目指して
〜心のバリアフリーの理念を理解する〜
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日本語:ボランティア